石見国の国府(現在で言うところの県の役所)は、那賀郡の伊甘郷にが存在しましたが、場所が確定しておらす、浜田市国分町あるいは下府町(シモコウチョウ)であるという説が濃厚です。

 

しかし、延喜式に記載されている邇摩郡の神社に「国分寺」の名前がある「国分寺霹靂(びゃくらく)神社」の存在から、邇摩郡から那賀郡に国府が移転したのではないかという説があります。

 

※ 霹靂の読みは、「びゃくらく」「かんたけ」「へきれき」などがありますが、ここでは、石見東部では「びゃくらく」らしいので「びゃくらく」としました。

 

現在、邇摩郡には国府があったという考古学的な証拠もないまま、現在でも謎です。迩摩郡から那賀郡への国府の移転説の概要をまとめてみました。

 

 

石見国の国府とは?

 

古代日本の律令制度において、各地域には国府が設けられ、地方行政の中心となっていました。

 

石見国もその例外ではなく、古代から国府が存在し、地域の政治・経済・文化の拠点となっていました。

 

国府の所在地は諸説あります。しかし、現状では那賀郡伊甘郷にあったのではないかとされています。

 

国府址の石碑のある伊甘神社

 

 

考古学的に確たる証拠がないものだから、国分寺や国分尼寺のある浜田市国分町説もあります。(下府町に近接しています。)

 

国分寺とは?

 

天平13年(741)の聖武天皇の国分寺・国分尼寺建立の詔により、各国に国分寺・国分尼寺が造られました。

 

だいたいにおいて、国分寺は国府の近場に建立されるものです。

 

石見国の場合、国分寺は、金蔵寺のある場所(島根県浜田市国分町1527)にあり、国分寺尼寺も金蔵寺近くにありました。

 

国分寺尼寺跡 島根県浜田市国分町216

 

 

石見国の国府移転説

 

これは、『島根県史』第5巻(大正14年)にも、野津左馬之介氏が書いた説です。⇒ 国立国会図書館デジタルコレクション 島根県史5 

 

主要な根拠をまとめます。

 

①雷峠附近に国分寺跡があり、その近くに国分寺霹靂神社があった。

 

その重要な論拠の一つが、仁摩町の雷峠附近に国分寺跡がありその近くに国分寺霹靂神社があったとされること。

 

②北方に山陰道が通過し、そこから適当な距離に国府跡を想起する「御門」地名などがある。

 

③正月元日に演じられる「鳥追い」の行事が最初に御門の田園で行なわれることは、この場所が由緒ある古跡であることを示している。

 

次に具体的に見てみます。

 

国府のある那賀郡ではなく邇摩郡に国分寺霹靂神社がある

 

国分寺霹靂神社の話の前に、「霹靂神社」(びゃくらくじんじゃ)とは何か述べます。

 

霹靂神社とは?

 

延喜式神名帳には、「霹靂」という神社は、自分が調べた限りでは、全国で3社あります。

 

  • 宮前霹靂神社 (みやさき かんとけ じんじゃ)    大和国 宇智郡
  • 霹靂神社(びゃくらく じんじゃ)         石見国 迩摩郡
  • 国分寺霹靂神社(こくぶんじびゃくらく じんじゃ)  石見国 迩摩郡

 

霹靂の意味は?

 

宮前霹靂神社の説明版の一部をお借りします。

 

『霹靂』とは、『かみなり いかずち 雷鳴』を意味し、『神解け』(かみとめ・かむとけ)とも表記される。

 

読み方について、諸誌では、カントケの他カミトケ・ナルカミ・サクイカヅチ・ヒャクラク・ヘキレキなどと訓でいるが、いわゆる雷神のことである。

 

ちなみに、『和名類聚抄』には、巻2 鬼神部には、このように書いてあります。

 

雷公[電等附] 兼名苑云雷公一名雷師力回反[和名伊加豆知]一云[奈流加美]電堂練反[和名伊奈比加利]一云[伊奈豆流比]一云[伊奈豆万]電之光也一云霹靂辟歴二反俗云[加三於豆]一云[加美止介]霹折也靂歴也所歴皆破折也

 

『和名類聚抄』によれば、「かみおつ」か「かみとけ」と、読むそうです。

 

霹靂の「霹」は、「折れる」の意味で、「靂」は「歴」であるそうです。雷が、木を切り裂いて、通りすぎる様を言ったののかもしれません。

 

那賀郡に国分寺跡があるのになぜ?

 

那賀郡の国分寺跡と邇摩郡の国分寺霹靂神社が近くにあれば不自然ではないです。

 

しかし、実に40㎞以上は離れた距離なので、国分寺そのものが移転したのではないかという説がでてくるのです。

 

以前邇摩郡にあったとされる国分寺はどこに

 

現在の仁摩町仁万の国分寺霹靂神社(現在は、神楽岡八幡宮の境内社)の社伝によると、下記の通りです。

 

仁万の国分寺霹靂神社 島根県大田市仁摩町仁万1436

【祭神】 別雷神 玉依姫命

 

 

天平14年(742)仁萬村字御門(みかど)に国分寺建立、

 

大同4年(809)正月霹靂神社を境内に安置

 

貞観11年(869)12月従五位上

 

元慶3年(879)9月4日正五位下

 

永禄年間(1558-70)尼子毛利の合戦で社殿残らず焼失。

 

神楽岡八幡宮に合祀される前は、島根県立邇摩高等学校の裏の明神山にあり(明神古墳あり)、さらにその昔は、雷山に鎮座していたそうです。

 

邇摩郡と那賀郡の国分寺霹靂神社

 

那賀郡にも国分寺霹靂神社があるのなら、国分寺と近接で移転説も出てこなかったのかもしれません。

 

しかし、延喜式には邇摩郡にしか、国分寺霹靂神社がないのです。

 

邇摩郡には、霹靂神社としょうする神社が、3社、那賀郡に1社あります。邇摩郡の3社は、江戸の寛保・安永の頃にも、論社争いがあったようです。

 

温泉津町の霹靂神社

 

霹靂神社 島根県大田市温泉津町湯里1684

【祭神】 別雷神 玉依姫命

 

 

江戸時代の論社争いでは、湯里の霹靂神社が有力視されました。

 

五十猛町の国分寺霹靂神社

 

五十猛神社  島根県大田市五十猛町2349−1 

 

 

現在は五十猛神社に合祀されています。

 

明治初年の記録によれば、「社殿坪一合」とあるので「祠」(ほこら)だったようです。

 

 

国分町の国分寺霹靂神社

 

国分寺霹靂神社(こくぶんじかんたけじんじゃ)由緒にフリガナがあり。  島根県浜田市国分町1905-3

【祭神】 雷神

 

 

 

この神社を式内社・国分寺霹靂神社に比定する考えもあります。

 

本来は延喜式神明帳の那賀郡に神社名を書き入れるところ、邇摩郡の終わりに紛れたとする説です。

 

そもそも国府の近くに国分寺霹靂神社は建てられるものという考えがあります。

 

しかしながら、今のこの神社の社伝では、国分寺移転説のようです。

 

国分寺霹靂神社は、石見国分寺が当初邇摩郡仁万に創建されたとき国分寺の守護神として鎮斎された歴史上重要な神社である。

 

後に国分寺が現在の金蔵寺の地に移されたとき、その東方「着」を社地を定め、ここに祀られたのが やがて国分地区の氏神として崇敬されるにいたったのである。(由緒抜粋)

 

仁万の御門(みかど)地名

 

なぜ、御門(みかど)地名があるところが、国府跡であるという根拠がよくわかりません。その場所はどこなんでしょうか。(405ページ~406ページの抜粋)

 

邇摩郡家 邇摩郡仁萬村字コフダは其遺址なり、概論的に謂へば其郡名を郷名に負へるは本郡の中心地たることを示すものにて、

 

此地大森街道(新道)と仁萬川との間帯の如き狭長なる一帯の田園にして、字名幸田(コフダ)は国府址の田となりしことを示せる名となりしことを示せる名と見られるべきも、

 

其東隣約一町許りを隔てて御門(ミカド)なる字ありて国府址たることを示せり。(『島根県史』)

 

※ 一町は、109.09mです。

 

御門地名はもう一つあったように書かれています。

 

然れども、国守の館邸も同じく御門と称して仁萬村字御門(現時は字清名の内に編入し従て御門の字名を失たり)(『島根県史』)

 

『島根県史』5巻(大正14年)より  御門地名の地図 (406ページ)

 

 

左上に龍厳山(りゅうがんざん)が見えます。川の名前が仁万川⇒潮川に変わっています。

 

地名もすでに消失しています。

 

御門地名は、おそらく、在の「道の駅 ごいせ仁摩」の裏側あたりだと思います。

 

『邇摩郡案内』(昭和14年 邇摩教育会)にも同様のことが書かれていました。

 

邇摩郡家は、国府跡の北隣の字「コホダ」に置かれてゐた。

 

「コホダ」は郡田の転訛であるといはれている。(『邇摩郡案内』)

 

今の所、国府跡、あるいは、邇摩郡の郡家跡の考古学に発見はないようです。

 

五町田台 説

 

『大国文化観光誌 ふるさと十二勝』(昭和47年)には、また国府跡の別の説が書かれていました。

 

村の西南隅にある砥平な沢はなめらかで広さは約五町歩ばかりで鏡のように浄洋する。これを五丁田といっている。

 

仁万駅を出てから南に潮川を二、三百メートルばかりさかのぼると西側の小高い山々、丘陵の下に広がる田園である。─中略─

 

よく調査してみると、邇摩郡の国府、国分寺は大国町宮村の五丁田台、「字迫」「字おさい迫」「字岩屋口」「字下蛇美」周辺にあったことが、窺い知られる。─後略─

 

地名も喪失して、なかなか昔の地名を知っている人もおりませんでした。

 

国府があったかどうかは別にして、八束水臣津野命や大国主命の伝承もあり、仁摩町は古い歴史を感じさせられる面白い地域です。

 

仁万の町を流れる潮川

 

 

参考文献

  • 関 和彦 『古代石見の誘い道』 (今井出版)
  • 『式内社調査報告 第二十一巻 山陰道4』 (皇學館出版部)
  • 島根県教育委員会 『石見国府跡推定地 調査報告 I』 (昭和54年3月) 👈インターネットで読めます。
  • 島根県教育委員会/ 国土交通省松江国道事務所 『庵寺古墳群Ⅱ 大迫ツリ遺跡 小釜野遺跡』(2014年3月)

 

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